2014年6月12日木曜日

morning writing (俯瞰の視点、えっと、今日はエネルギーについてどんなドラフトなら面白いかなと思うことをやる)

昨日、バエのやつに本当にムカついた。それで自分を見失っていたと思う。
自分を見失うとはどういうことなのか
そのことを考えてみたんだけど
自分を自身を見失うということは

俯瞰から見ている自分の視点を見失うことだと思う。
この俯瞰からの視点が人生においてとても重要なんだが、あんまり上手に説明されていない感じがする。

どういうことかというと、人生において選択は普通誰かの意志が反映させられる。
当たり前だが、

パンを食べるかコメにするか
今日大学に行くかそれともこのまま論文書くか
休憩するか働くか

このトレードオフの関係なんだがそれ自体は本当はあんまり意味が無い
なぜか、それは選択する人がその選択を自分の意志だと思っているから
(このへんが多分重要なヒントが隠されているんだが)

で、

この生産性の低い俺について考えると

なんか気分がわるいからやらねぇというのは(自分の気持ちを見ている視点、やりたいからやるとかやらないからやらないとかそういう気持ち、、、この辺ももうちょっと整理する必要があるけど

あと、俯瞰の視点とは、自分が自分のボスであり、自分が自分をある人生の目標に向かってコントロールしている状態(とでもいうのかなぁ、、言い方はむずかしいけど)

どちらにもメリットどデメリットがあるとおもうけど、めんどいのでそれはあとで考えよう

ほとんどの人は自分の人生を自分のためには使っていないそういう人は自分が自分のボスであることをわすれてこの俯瞰の視点というポジションをうしなう。
とどうなるかというか、オートドライブモードとでもいうか、そういう感じの人生が始まる。
それは、たとえば、コントロールed by広告やテレビ、親だったり、あとは宗教であったり。誰かの意見とか、誰かの規範がそごく大事になってくる。その規範や査定から外れることをとても不安視するようになる。

それは、ある意味、選択からの開放と責任の放棄ができる。

俯瞰の視点だと、自分をどのように行動させることが(略、で戦略設定ができるようになる。
いろいろめんどくさいことは起きるが、人生をコントロールしているという充実感がでてくる。

でも、この2つにももちろんある条件による弊害がある。
俯瞰の視点が人の意見を聞かなくなり唯我独尊状態になる可能性もそうだが
もう一つの自分視点というのもその規範的なものが腹減ったら飯う、ネタきゃ寝る。みたいな刹那的動物的なものなら、そりゃ生産性は落ちる。ただし、生きるのに十分な食料とか水とか環境があれば全員平和に暮らせるかもしれない。

だから、この2つの視点をミックスさせることが大切なのだ
まぁ、老莊の思想と孔子の思想を合わせるようなものなような感じか、まぁ、一見背反するもんをコンバインするっていう考え方はそうかもしれない。

まぁ、いい。
現代版でいうならセミ・オートドライブモードで生きるってことだ
朝とかよるとか、決まった時間にオートモードを解除して
自分の進路が正しいかどうかチェックすればいいのだ
普段の生活はその俯瞰から考えられたチェックリストで行動すればよい
これで、かなり生産性はあがる。考えながら行動するのは時間がかかるから、習慣化してしまえばいいから。(またちがうコンセプトが入ってきた、、、


というわけで、
今日は
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ドラフトをおわらそう
サムの意見は尊重しながらも、自分のやりたいことをやろう
あとにも先にもこの時間は帰ってこないのだから納得行くものを作ればいいのだから
納得行くものは、おそらく俺自身の興味に従ったほうがいいものができる。
メッそっどはサムは優秀だ。
M教授は大枠で大丈夫かどうかの方向性をきけばよいともう

今日はエネルギーについて何書くか考えて見よう

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